ベルリンの壁クイズ

今回の記事もそらしのさんから投稿していただいたクイズになります!

そらしの
ベルリンの壁に関するクイズ14問です。基本、学生系くらいの難易度となってしまったので、2点取れれば十分合格だと思います。
①ソ連とアルバニアの国交断絶、ピッグス湾事件の発生、ベルリンの壁建設などの国際社会を揺るがす事件が起こったのはいずれも西暦何年でしょう?
②1961年にフルシチョフに宛てた書簡の中ではベルリンの壁が建設されるまで西ドイツとの間が開放されていたことが、住民の生活水準との関係上経済政策全体を拘束することになったと述べている、1949年には東ドイツ発足とともにドイツ社会主義統一党書記長に、1960年には国家評議会議長に就任している、東ドイツの政治家は誰でしょう?
③ビリー・ワイルダーはこの映画の撮影時にベルリンの壁出現の現場に居合わせたとされている、コカ・コーラ本社の娘の監督を頼まれた西ベルリンの支社長が、東ベルリンの青年とその娘が結婚してしまったことを隠すために奔走するという内容のコメディ映画は何でしょう?
④ベルリンの壁が建設された年の8月15日に彼が鉄条網を飛び越えて西側に逃げる様子を撮った写真「自由への跳躍」は東西冷戦を象徴する写真となった、ベルリンの壁建築後の最初の亡命者となった東ドイツの人民警察機動隊員は誰でしょう?
⑤インヴァリーデン通りの橋のたもとには彼の記念碑が建てられている、ベルリンの壁建設が着手されてから11日後の8月24日に銃弾を受けて24歳の若さで亡くなった、ベルリンの壁脱出失敗による最初の犠牲者とされているのは誰でしょう?
⑥最盛期にはその正規職員の数は少なくとも9万人以上いたとされている、正式名称を「国家保安省」という、1950年の創設からベルリンの壁崩壊までの40年に渡って東西ドイツの民衆を監視下においた旧東ドイツの政治警察は何でしょう?
⑦7歳の時にテレビでベルリンの壁を見て一目惚れし、1979年6月17日にベルリンの壁と結婚すると同時に自身のファーストネームを現在の名前に改名しているスウェーデン出身の人物は誰でしょう?
⑧ハンガリーでの共産主義の放棄、第二次天安門事件発生、ベルリンの壁崩壊などの民主化に向かう出来事が発生したのはいずれも西暦何年でしょう?
⑨1968年に東ドイツ北部のパゼヴァルクで生まれ、ベルリンの壁が崩壊する9ヶ月前の2月5日に逃亡を試み、銃弾を受けて亡くなった、国境警備兵の銃撃によるベルリンの壁の最後の犠牲者として考えられているのは誰でしょう?
⑩ベルリンの壁が崩壊する年の3月8日に熱気球での東ドイツからの脱出を試みたものの、ツェーレンドルフで墜落して亡くなったとされている東ドイツの人物で、ベルリンの壁によるドイツ分断の最後の犠牲者として考えられているのは誰でしょう?
⑪11月9日の記者会見の中で東ドイツ国民の出国規制緩和はいつ発効されるのかという旨の質問を尋ねられた際に「私の知る限り…直ちに」という旨の失言を犯してベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったとされる、ドイツ社会主義統一党の政治局員は誰でしょう?
⑫一般的に「ベルリンの壁を開放した男」として呼ばれているものの、本人自身は「壁を開いたのは自分ではなく、あの夜に集まったドイツの人々」だとしてこれを否定している、ボルンホルム通りの検問所の遮断棒を上げる決断を独断で行ったとされる、当時軍の中佐を務めていた人物は誰でしょう?
⑬ベルリンの壁崩壊後には東ベルリンの民衆が買い物に来るようになったために西ベルリンから一時期消えたとされている、バショウ科の多年草から取られる果実は何でしょう?
⑭ベルリンの壁に描かれている絵画の中では最も有名なものとされている、旧ソ連のブレジネフ元書記長と旧東ドイツの政治家ホーネッカーが接吻を行っているシーンを描いていることから「死のキス」や「兄弟のキス」などの別名を持つロシアの芸術家ドミトリー・ヴルーベリの作品を、28文字の読みで一般に何というでしょう?
この記事を作成するにあたって参考にした日本語の論文
木村明生の論文『中ソ対立における東欧諸国の立場』(アルバニア関連)
白樫三四郎の論文『集団の愚かな意思決定: ピッグス湾、真珠湾そしてウォーターゲート』(ピッグス湾事件関連)
斎藤晢の論文『東ドイツにおける消費生活の変化-ウルブリヒト時代-』
近藤潤三の論文『ベルリンの壁の犠牲者 最初と最後のケース』
近藤潤三の論文『ベルリンの壁・ドイツ内部国境の越境者問題』
涌井秀行の論文『20 世紀社会主義・ソ連崩壊の歴史的意味―冷戦構造の溶解と市場原理主義の全面展開―』(ベルリンの壁崩壊とギュンター・シャボウスキーに関する記述)

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