ベルリンの壁クイズ

今回の記事もそらしのさんから投稿していただいたクイズになります!

そらしの
ベルリンの壁に関するクイズ14問です。基本、学生系くらいの難易度となってしまったので、2点取れれば十分合格だと思います。
①ソ連とアルバニアの国交断絶、ピッグス湾事件の発生、ベルリンの壁建設などの国際社会を揺るがす事件が起こったのはいずれも西暦何年でしょう?
1961年
[恐らく、前半二つを聞いたことがない人もいると思うので、説明入れておきます。1961年にフルシチョフが中国共産党派のアルバニア指導者を非難したのに対し、ホッジャ政権下のアルバニアは態度を硬化させ、ソ連を「修正主義」と批判して国交を断絶し、親中国政策を取ったとされています。ピッグス湾事件は1961年4月にアメリカがキューバのカストロ政権の転覆を狙ってキューバ侵攻を行い、キューバ南東部の「ピッグス湾」に上陸した事件です。作戦自体は、カストロ軍の徹底的な反撃を受けて失敗に終わります。同年1月のアメリカとキューバ間の国交断絶がその背景にあるとされています。他にも1961年にはクウェートやタンガニーカの独立、アメリカでのジョン・F・ケネディ大統領就任、ベオグラードでの第1回非同盟諸国首脳会議開催など様々な事件が起こっています。一緒に覚えておきましょう。]
②1961年にフルシチョフに宛てた書簡の中ではベルリンの壁が建設されるまで西ドイツとの間が開放されていたことが、住民の生活水準との関係上経済政策全体を拘束することになったと述べている、1949年には東ドイツ発足とともにドイツ社会主義統一党書記長に、1960年には国家評議会議長に就任している、東ドイツの政治家は誰でしょう?
ヴァルター・ウルブリヒト
[1933年から1938年までパリに亡命し、共産党の国外指導部書記を務めていました。]
③ビリー・ワイルダーはこの映画の撮影時にベルリンの壁出現の現場に居合わせたとされている、コカ・コーラ本社の娘の監督を頼まれた西ベルリンの支社長が、東ベルリンの青年とその娘が結婚してしまったことを隠すために奔走するという内容のコメディ映画は何でしょう?
『One, Two, Three』(別名: 『ワン、ツー、スリー ラブハント作戦』)
[ビリー・ワイルダー監督は『失われた週末』『七年目の浮気』『お熱いのがお好き』『アパートの鍵貸します』『シャーロック・ホームズの冒険』などの映画で監督を務めたアメリカの映画監督です。有名な方なので、覚えておきましょう。]
④ベルリンの壁が建設された年の8月15日に彼が鉄条網を飛び越えて西側に逃げる様子を撮った写真「自由への跳躍」は東西冷戦を象徴する写真となった、ベルリンの壁建築後の最初の亡命者となった東ドイツの人民警察機動隊員は誰でしょう?
コンラート・シューマン
[「自由への跳躍」は19歳の写真家ペーター・ライビングが西ドイツ警察より得た情報をもとにベルナウアー通りで200ミリ望遠レンズを使って撮影した有名な写真です。シューマンは当時19歳で、人民警察機動隊の隊員として国境警備任務にあたっていました。東ドイツからしたら彼の脱走は想定外のものだったため、東ドイツは最初、シューマンの亡命を拉致事件として処理するつもりだったとされるものの、制服を着た兵士のシューマンが東ベルリンから逃げ出したことが写真で明らかになったことから、その処理を断念したとされています。]
⑤インヴァリーデン通りの橋のたもとには彼の記念碑が建てられている、ベルリンの壁建設が着手されてから11日後の8月24日に銃弾を受けて24歳の若さで亡くなった、ベルリンの壁脱出失敗による最初の犠牲者とされているのは誰でしょう?
ギュンター・リトフィン
[ベルリンの壁建設は一夜にして行われたと言われており、ベルリンの壁建設を知らなかったリトフィンは、東ベルリンの自宅から職場近くの西ベルリンへの移住を計画していました。しかし、8月12日の深夜に電車で東ベルリンに戻ったきり、西ベルリンに行けなくなり、越境を試みたとされています。また、2000年に彼が住んでいた通りが「リトフィン通り」に改称されています。雑記にはなりますが、リトフィンに続いて2番目に亡くなった人物は8月29日に泳いで逃亡している最中に銃弾で亡くなった「ローラント・ホフ」(当時27歳です)。長文難問を研究するクイズプレイヤーの人はこちらも覚えておいた方がいいと思います。
⑥最盛期にはその正規職員の数は少なくとも9万人以上いたとされている、正式名称を「国家保安省」という、1950年の創設からベルリンの壁崩壊までの40年に渡って東西ドイツの民衆を監視下においた旧東ドイツの政治警察は何でしょう?
シュタージ
[クイズだと「人権抑圧の象徴で、国民に最も嫌われ恐れられた機関」という前振りで聞くこともあります。尚、シュタージの存在が特に問題視されたのは個人データを600万件も保持していたのが統一後に発覚したからだそうです。]
⑦7歳の時にテレビでベルリンの壁を見て一目惚れし、1979年6月17日にベルリンの壁と結婚すると同時に自身のファーストネームを現在の名前に改名しているスウェーデン出身の人物は誰でしょう?
エイヤ=リータ・エクレフ=ベルリナー=マウアー
[一般的に「対物性愛」という概念を初めて打ち出した人物だと考えられている人です。名前の「ベルリナー=マウアー」はドイツ語で「ベルリンの壁」という意味があります。たまに学生系のクイズで見ますが、自分は答えられたことはないです。]
⑧ハンガリーでの共産主義の放棄、第二次天安門事件発生、ベルリンの壁崩壊などの民主化に向かう出来事が発生したのはいずれも西暦何年でしょう?
1989年
[恐らく、前半の2点で気になったことがある人もいると思うので、説明入れておきます。ハンガリーは1919年に共産主義政権が崩壊したのちにホルティの独裁政権を経て、1946年にハンガリー共和国に、1949年にハンガリー人民共和国に国名を変更したのち、1989年に共産主義を「放棄」して民主制の共和国に移行したと言われています。天安門事件は1976年4月5日に周恩来元首相を追悼する民衆が人民英雄記念碑に捧げた花の輪を当局が撤去したことに対して民衆が抵抗した「第一次」と、1989年6月4日民主化を求める学生や労働者たちが起こした「第二次」があります(第一次に関しては「四・五運動」という通称で呼ばれることもあります)。いずれも、紛らわしいので、間違えないようにしましょう。1989年には他にアメリカとパナマの断交、ルーマニア革命(1944年にも起きています。)、ポーランド総選挙での「連帯」の圧勝、昭和天皇の崩御による「平成」への改元などが起こりました。]
⑨1968年に東ドイツ北部のパゼヴァルクで生まれ、ベルリンの壁が崩壊する9ヶ月前の2月5日に逃亡を試み、銃弾を受けて亡くなった、国境警備兵の銃撃によるベルリンの壁の最後の犠牲者として考えられているのは誰でしょう?
クリス・ギュフロイ
[ギュフロイはスポーツ学校に通ってエリート予備軍への道が約束されていて、国家人民軍の将校となる道までが用意されていたものの、それを拒否したために上級学校進学ができなくなってしまったという逸話もあります。]
⑩ベルリンの壁が崩壊する年の3月8日に熱気球での東ドイツからの脱出を試みたものの、ツェーレンドルフで墜落して亡くなったとされている東ドイツの人物で、ベルリンの壁によるドイツ分断の最後の犠牲者として考えられているのは誰でしょう?
ヴィンフリート・フロイデンベルク
[一般的に「ベルリンの壁の最後の犠牲者」といえば、フロイデンベルクかギュフロイが答えとなるケースが多く、警備兵の銃撃による最後の犠牲者がギュフロイで、ドイツ分断の影響を受けた最後の犠牲者がフロイデンベルクです。]
⑪11月9日の記者会見の中で東ドイツ国民の出国規制緩和はいつ発効されるのかという旨の質問を尋ねられた際に「私の知る限り…直ちに」という旨の失言を犯してベルリンの壁崩壊のきっかけを作ったとされる、ドイツ社会主義統一党の政治局員は誰でしょう?
ギュンター・シャボウスキー
[一説にはこの失言はうっかりではなく、裏取引の元で行われたという話もありますが、実際はどうだったのかという話は研究者の間でも割れているらしいです。]
⑫一般的に「ベルリンの壁を開放した男」として呼ばれているものの、本人自身は「壁を開いたのは自分ではなく、あの夜に集まったドイツの人々」だとしてこれを否定している、ボルンホルム通りの検問所の遮断棒を上げる決断を独断で行ったとされる、当時軍の中佐を務めていた人物は誰でしょう?
ハラルト・イエーガー
[ハラルト・イエーガーの前振りでボルンホルム通りが出ることも、その逆もあるので、学生系に手を出している人は両方セットで覚えましょう。]
⑬ベルリンの壁崩壊後には東ベルリンの民衆が買い物に来るようになったために西ベルリンから一時期消えたとされている、バショウ科の多年草から取られる果実は何でしょう?
バナナ
[バナナは東ベルリンでは売られていなかったため、コール首相が「統一されればバナナは毎日食べられる。西側の物は何でも自由に手に入る」などと統一ブームを呼びかけたとするエピソードもあるそうです。]
⑭ベルリンの壁に描かれている絵画の中では最も有名なものとされている、旧ソ連のブレジネフ元書記長と旧東ドイツの政治家ホーネッカーが接吻を行っているシーンを描いていることから「死のキス」や「兄弟のキス」などの別名を持つロシアの芸術家ドミトリー・ヴルーベリの作品を、28文字の読みで一般に何というでしょう?
『神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え』
[ベルリンの壁のニュースの際には使われやすい映像のため、絵だけ見たことがある人も多いはずだと思います。追加で補足しておくと、ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員としてベルリンの壁を建設した人物です。]
この記事を作成するにあたって参考にした日本語の論文
木村明生の論文『中ソ対立における東欧諸国の立場』(アルバニア関連)
白樫三四郎の論文『集団の愚かな意思決定: ピッグス湾、真珠湾そしてウォーターゲート』(ピッグス湾事件関連)
斎藤晢の論文『東ドイツにおける消費生活の変化-ウルブリヒト時代-』
近藤潤三の論文『ベルリンの壁の犠牲者 最初と最後のケース』
近藤潤三の論文『ベルリンの壁・ドイツ内部国境の越境者問題』
涌井秀行の論文『20 世紀社会主義・ソ連崩壊の歴史的意味―冷戦構造の溶解と市場原理主義の全面展開―』(ベルリンの壁崩壊とギュンター・シャボウスキーに関する記述)

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